逆説的な言葉ばかりでやる気出なくなってしまった。
例えば仕事について、目の前のやるべき事に対してやる気が出ない時、今の環境のもっと先を見ると、目の前のことを本気でやろう!って思えるし、経験として、ちゃんと役に立つことが多いです。
新たなことを学ぶこと、伝える事は楽しいし、光に進んでいる感覚がある。
でも「今を生きる」とか「やりたくない事は波動が落ちるからやらない」とすると、ほんとは人と関わるような組織で働くのは辛いから、波動的にやる意味ないって思える。
どっちが本質なんだろう????ってなって、最近の私は疲れてました。
でも、これも絶対まとめれるし深いところから答えがくると信じて、このカラクリの見解を書いてみます。
何事も、深い執着から卒業しないと終わらない
エゴ→足りないを受け入れる→不足からの卒業→目覚め=諦め
という見解が出ました。
なるほど、たしかに不足していることから抗い行動することが三次元の遊び方だった。
ですが、もうダメだ、もういいや、どうにでもなれ、なにが起こってもどうにでもなるし、どうなってもどうにかするしかない、という諦めの境地につくと、どうしようもなかった事の詰まりが取れて解決していく。
拍子抜けするほどあっさり終わる。
これが物事はただ起こっているだけの真理なんだよね。そこにドラマと意味づけをしているのは自分だけ。
目覚め=諦めと短縮しちゃうと、またエゴが暴れ出して、「つまんないし、やる意味ないよ!もっと遊ぼう!」と三次元に留まることをゴリ押ししてきてた。
受け入れる、認める、=落ち着く、観察する、精神的距離、静観
抗わない、ただやる=本当の行動
波動がシンプルになって、乱れた現実展開が整う。
全てのことは目覚めるための仕掛けに過ぎない。
どうしても嫌な事はしなくていいし、逃げてもいい。
問題に対して、意地になるのが一番残念な展開。
例えば私は「認められない、誤解される、上司に感謝されない!」っていう強いこだわりがあるみたいで、毎回それで仕事辞めてます笑。
この強い拘りの原因が「意地悪な上司の元で意地になって仕事頑張り続けた」からでした。
意地でも感謝させたかった。
でも無理だった。
辞めてから、「あの人(上司)は貴方には、かなり遠慮してたよ」という評価だった。
長い年月が経って、どうでも良くなってから聞いた評価だった。
今となっては「そうだったんだね」という感じ。
あの時は死ぬほど欲しかったけど、死ぬほど欲しいたいうことは、死んでも手に入らないとある意味自覚しているということ。
遠すぎる。
無駄な抵抗はやめなさい、大人しく降伏しなさい
こう言われると抗いたくなっちゃうけどさ、
何事も「もういいや」って本気で諦めると叶う。
「今は何としても目覚めたーい!5次元意識になりたいー」って思ってるけど、「あー、もういいや」ってなった時、突然「あー、これかー、」ってなるのかもね。
もう、抗うのやめて、諦めて、受け入れてみる?