久々に美術館に行ってきました。
福岡道雄 作らない彫刻家 です。
私は、芸術家の中でも彫刻家をはじめ、3Dで表現する人たちのことをエゴイスティックなカッコつけだと決めつけて嫌厭していました。
しかし、彼は掴み所のない己をの中身を探し、見つめ続けた人なんだと思いました。
この展示は全6章からなる彼の心の道筋に沿って展開されていきます。
第1章
彫刻らしきそれを創ろうと思えば思う程、真実らしい仮面をかぶった偽作が出来る
※ここだけ撮影OKのコーナーでした。
これは、私が常日頃から捉えられるエゴとの葛藤と類似するテーマです。
よく思われたい、特別でありたい、カッコよくありたい、そう意識するほど気持ちの悪い仕草や言動で相手を引かせてしまう。(ような気がする)
自然に振る舞いたいのに、相手を見ると演技がかってしまって、その不自然さに恥ずかしさと居た堪れなさで量子が歪む。
どうすれば私はわたしのままでいられますか?そんな面倒なことを思っている人って結構いるもんですね。親近感。
第5章
中心の無い彫刻、あるいは無数に中心のある彫刻
ここに展示されていたのは、FRP(繊維強化プラスチック)の黒い板に無数に書かれた小さな文字達。
何をしても仕様がない
何をしていいのかわからない
何もしたくない
これらのワードが1.8×1mぐらいの巨大な黒板に無数に刻まれていました。だいたい1つの板に10,000〜8,000回ぐらい彫っているのかな?
同じ文字列を見つめていると、この人は、空間の量子の声を聞いていたのでは?なんて思えてきます。
物質化されていない量子達は、何もやることがないとただ空間を漂ってるだけで、何かになりたがっているのかもしれない、なんて思いました。
そんなに暇なら、私の役に立ってよ!というのが私の感想ですね。笑
自分の中をずっと見つめていると、どうしようもない孤独や、やるせなさ、暇さが溢れててくる。人間は根源的にそういう闇からやってきたように思います。
そういう闇とまともに対峙しても勝ち目は無いのです。それは太古から続く大きなうねりそのものだから。
最終章、彼はそれらと向き合うことを放棄しました。作らない彫刻家になったのです。
そうして庭いじりやら釣りをする日々の中、土をこねて遊んで作った小さな粒の中に真髄を見出し、それを最期の展示物としました。
何の意味もない小さな粘土の粒達です笑
何でこれが最期!?ってなります。
彼は全てを放棄して生きる中で、何の意味もないもの、小さな粒の中に自分らしい人間らしさを感じたのかな?
諸行無常、人生なんてなんの意味もない。
意味を見出そうとするほど無意味になる。
無意味の中に意味が籠る。
逆説的な答えを私なりに出しました。
まだまだ考えすぎかな。諸行無常の境地にはまだ納得出来てないんです。まだまだ若いってことかな笑