嫉妬をする側も、される側も隠された意味がある。
先日こんな記事を書きました。
これは、私の根本的な恨みそのもので、いつも理不尽に恨みを買う自分を哀れんだし、理不尽に恨む相手を格下と蔑み、憎んだ。
でも、私も壮大に嫉妬し、理不尽な恨みの塊となったことがあったことを、思い出しました。その時は本当に苦しくて、まさに生き地獄。なんの救いもない日々を酒と音楽とセックスで紛らわしていました。
妬んでいる時、それは自分を信じられない時。
自分に与えられるはずのものが、自分以外の者に与えられていると信じている。あるいは、自分はそれを手にすることは、相手のせいで叶わないと信じている。
だから、強く妬めば妬むほどにその通りになる。
引き寄せの法則によって。
望む状態を得られていない現実があっても、
自分の力を信じることができれば、
思考を黒く焼き染めるネチネチとした嫉妬の炎は鎮火する。
冷静になる為に、その場から離れるか、その関係を断つか、または、ただ静かに自分の内に籠る時期があるかもしれない。
それは惨めでもなんでもなく、自分の内側を癒す為のこと。
外部の世界に影響されず、ただ自分の内なる力やエネルギーを感じて、自分を生かしている奇跡を感じるしかない。
妬まれている時、それは自分を蔑んでいるとき
妬まれているとき、相手に何か負い目を感じていることがある。
または、自分を蔑み、与えられた才能を地に落としているかもしれない。
不思議なことに、自分にたいして自信がない時や、謙虚であろうとしているときほど妬まれることが多い気がする。
謙虚であれだ?
謙虚あることは大切だけれど、謙虚の持つ本来の崇高な意味は、支配者によって歪められてしまった。
謙虚とは、自分など大したことはないと己を蔑むことではない。
相手に尊敬する気持ちを持つことだ。
尊敬する相手にとる態度のことだ。
向き合う人全てが、自分の師であるなら、横柄な態度は取れない。
師匠が教えてくれといえば、教えるし、教えてやろうといえば教えていただく。
謙虚とは、相手に尊敬と感謝の気持ちをもって接する単なる礼節。
そして自らも誰かにとっての師であると自覚し、同等に尊重すること。
過度に自分を貶めて、相手を立てるという意味じゃない!
己を振り返って思うこと。
自分の才能を舐めている時、必ず他人の才能も蔑み、バカにしている。
「大したことないくせに偉そうに、滑稽だね。」と冷たく蔑んでいる自分がいる。
自分の価値を認められないから、他人を貶めて、地に落ちた自己評価の底上げをしている自分が見えた。
なんだ、どっちもどっちか。
どうして私の周りに、強烈なサイコパスや自己愛性人格障害が現れるのか不思議だったが、沈み込んでいた黒い本音は、それらの人々と引き合う同質のものを持っていた。
自分も同類であることが残念だし、他人を強く責めた愚かさが恥ずかしい。
けれど、自分の力を信じる決意をしたとき、具体的には、自分の能力より下の立場で余裕ぶっこいてるんじゃなくて、自分に見合った立場やステージで生きることを望み、行動したとき、もう自分の才能から逃げられないと思った。
自分を信じて、望んで行動したなら、言い訳ができなくなるから、他人のことなど気にしている余裕がなくなる。
他人を蔑んでいる暇も、自分を蔑んでいる暇もない。
自分を信じて、やっていくしかない。
自分がすがりつける、ただ一つのお守りは、「何が起こっても、寿命まで死ぬことはない」という、命の基盤のみ。
金でも人でも物でもない、目に見えない命に縋るのは、心細く不安だ。
けれど、生がある限り、絶対に自分を裏切らず、自分を支配しうるものは己の命だけ。
それこそが神のエネルギーで、人が本来頼り縋り信じられる唯一のものだった。
この一生も終わってみれば、夢のように一瞬だろう。
どうせならこの命で奇跡のように美しい夢をみたい。